門昌庵騒動記A

 柏厳の処刑



 そのころ松江は、時折、法憧寺を訪れ柏厳和尚の法話に耳を傾けるのを楽しみにしていた。矩広の寵を受けながら、なお出奔した許嫁の面影を忘れ得ぬことに、深い悩みを抱いていたからである。
ところが、それに目を付けた好臣一味は、「近ごろ松江殿には、仏事にかこつけ柏厳和尚のもとへ頻繁に通いまするが、人の噂にては只ならぬ関係とのことにござります」
 と矩広に密告した。まだ二〇歳の炬広は、苦いだけにカッとなって思慮を失い、すぐに松江を呼び付けると、何もいわずに斬り付けた。驚いて逃げる松江を追って、さらに一刀を浴びせたが、幸いお守役の新井田好寿が後ろから抱き止めたので松江の傷は浅くてすみ、一命を取り止めることができた。その場は好寿の諌言で、矩広もようやくわれに返ったが、やがて松江は家臣にお預けとなり、柏厳和尚は江差北方の熊石へ流罪となった。配所の柏巌は、ささやかな草庵を結んで、孤独ながらも悟りきった静かな日々をそこで過ごした。
 そのころ矩広は参勤交代で江戸にいたが、とかく健康が勝れず病床に伏す日が多かった。すると飽くことを知らぬ奸臣どもは、「殿の御病気は、柏巌の呪いのせいに違いございませぬ」
 とまたも言った。健康が勝れぬため苛立っていた矩広は、激怒して、「配所で柏巌の首をはねよ」と厳命した。

 延宝六年一二月二二日、細界、杉村、明石、酒井らを首班とする一六人の検便一行が熊石へ向かった。斬首の上意を開くと、柏巌は少しも驚かず、身支度を整え、大般若経一巻を読み終わってから、悠然と庵の前の小川の傍に坐した。
 自刃が一閃すると、相良の首は鮮血を吹き上げて前に落ちたが、途端に傍の小川の水が逆流した。さらに検使の一行が首を桶に納めて立ち去ろうとしたところ、突然空が黒雲に覆われ、烈風豪雨の吹きすさぶ大嵐となった。検使たちは不安を抱きながらもとにかく上の国の天の川まで引き返して果たが、橋が流失していてそれ以上は進めないので、やむなく江差へもどって円通寺に泊まることにした。
 するとその夜、首桶から青白い炎が燃え上がり、たちまち柱に移って、円通寺は一夜で放け落ちてしまった。しかも不思議なことに、桶は灰になってしまったが、柏巌の首だけはまるで生きているように眉毛一本焦げていない。これにはきすがの肝臣どもも震え上がり、きっそくその旨を城中へ急報した。

 城中では重臣会議が開かれ、その結果、「罪もない高徳の僧を斬首したため仏罪を被ったのであろう。その昔を城内に持ち帰ったら、どんな大事が起こるやも知れぬ」ということになり、首を熊石へ返し手厚く葬るように指示した。
 こうして柏巌の首は再び熊石へもどきれもとの庵の傍に葬られた。
 そしてさらに一字を建て、柏巌の字をとって門昌庵と名付けた。
 因みに柏巌は越後国出雲崎在の郷士の出で、幼少のころから神童といわれていたが、二三歳の折りに蝦夷地に渡り仏門に帰依し、ついに法撞寺六世となった名僧で、処刑されたとき三五歳であった。