箱館戦争A

 官軍の反撃


 明治新政府は一一月一九日、榎本軍の討伐令を発し、二七日に清水谷公考を青森口総督、黒田清隆、太田黒惟信を総督参謀、山田顕義を陸軍兼海軍参謀、曽我裕準、増田明通を海軍参謀に任じ、雪解けの明春を期して箱館攻撃の手はずを整えていた。
 明治二年三月、官軍は大挙して東京を出発、甲鉄艦を旗艦とする官軍艦隊は三月一八日陸奥の宮古湾に到着した。それを知った榎本は甲鉄艦を奪おうと宮古湾に奇襲を掛けたが失敗した。これが有名な宮古湾の海戦である。

 三月二六日、官軍艦隊は青森に入港した。一方陸軍もぞくぞくと青森に集結し約七千の大軍となった。四月六日、官軍参謀山田顕義は、兵約二千を率いて陸奥湾西入口の平館に進み、九日江差北方約一里の乙部村に上陸した。その後、官軍と榎本軍との間には連日激戦が展開され、局地的には榎本軍の勝つこともあったが、全般的には官軍が優勢で、榎本軍は江差から松前に退いた。松前城も間もなく三千余の官軍に包囲され、海上からも艦砲射撃を受けて四月一七日に落城、二〇日には次の拠点木古内も官軍の手に渡った。

 一方箱館湾では両艦隊が数度海戦を交え、榎本軍が優勢だった。
 そこで官軍は五月一一日を箱館総攻撃の日と定め、当日には海陸両方面から大軍が箱館に迫り、ついに箱鋸を占領した。
 各地で敗走した榎本軍は五稜郭に集まって釆た。五稜郭からは箱館奪回の決死隊五〇人が、土方歳三に率いられて出撃したが、土方はこの戦いで腹部に敵弾二発を受け、新選組以来の隊士に見守られつつ三五年の生涯を閉じた。

 ついに榎本軍は五稜郭と弁天、千代ヶ岡の両砲台だけになった。
 本営の五稜郭も落城はすでに時間の問題なので、官軍参謀の黒田清隆は、標本軍の箱館病院長高松凌雲に協力を求めて五月一三日、五稜郭と弁天砲台とに、それぞれ降伏を勧告した。しかし模本は勧告を拒否するとともに、彼が留学中に手に入れた「海律全書」二冊を、「……海軍無二之書に付、兵火に付し烏有と相成候段、痛惜いたし侯間……」
 という返書の追伸に添えて黒田清隆に寄贈した。黒田もまた酒五樽と鮪五本を模本に陣中見舞として贈り「海律全書」寄増の謝礼とした。
 五月一五、弾薬と兵糧の尽きた弁天砲台がまず官軍に下り、翌一六日には千代か岡砲台も陥落して、榎本軍はいよいよ本営五稜郭だけになった。

 16日の夜、榎本は松平太郎と協議の結果、全軍を集めて、「いたずらに死するは無益。われわれが罪に服するゆえ、諸君は戦いを止め帰順されたい」と諭し官軍に翌朝までの休戦を申し入れた。その夜、榎本は多くの部下を死なせた責任を取って自刃しようとしたが、人々に発見され止められたので、ついに官軍の軍門に下ることを決意した。
 こうして五月一八日、五稜郭は官軍の手に帰したが、戦後黒田清隆は、木戸孝允らの榎本武揚処刑説に極力反対し、助命懇願のため髪を剃って頭を丸め、「いまになって死刑にするくらいなら、五稜郭で華々しく戦死させるべきだった。抗戦を主張した榎本を説得して降伏きせたのは、助命し新政府に登用すべき人材と考えたからだ」と譲らず、ついに木戸らの意見を押え死刑説をくつがえした。


 傷心惨目碑、碧血碑


 現在函館には五稜郭をはじめ箱館戟争に関する遺跡が少なくないが、高竜寺境内にある傷心惨目碑″や谷地頭町に立つ碧血碑≠烽サのひとつである。まず傷心傍目砕″の由来を尋ねると
 当時大黒町にあった高竜寺は、榎本軍の野戦病院として傷ついた兵を収容していた。ところが明治二年五月一一日の箱館総攻撃のとき、津軽と松前の藩兵が突然ここへ乱入して来たのである。そして無抵抗の負傷兵を一〇人以上も斬り殺した上、寺に火を放った。たちまち猛火は寺を包み、身動きもできない重傷者は助けを叫びつつ焼き殺された。この犠牲者は大部分が会津の藩兵だったので、明治一三年旧会津藩の人々は傷心惨目≠フ碑を建てて、彼らの霊を慰めたのである。