箱館戦争@

五稜郭占領

 慶応四年(一八六八年、九月を以て明治と改元)一月、鳥羽、伏見の戦いに敗れた江戸幕府は、同年三月一三日江戸城を無血開城し官軍の軍門に下った。しかし、明治新政府の旧幕府に対する処置に不満を抱く旧幕府海軍副総裁榎本武揚は、開陽、回天、蟠竜など徳川家に残された戦艦八隻を率いて品川沖に停泊し、世の情勢を見守っていたが、同年八月一九日の早暁、同志の松平太郎、荒井郁之助、永井尚志らをはじめ彰義隊の残党や旗本の脱走者など二千余人を戦艦に収容すると突如として品川沖を脱出した。
 だが、この榎本艦隊は房総沖で大暴風に遭遇、各船とも離散し、中には沈没したり拿捕されたりした船もあったが、榎本の乗る旗艦開陽は八月二六日仙台領の東名浜に着き、他の戦艦も逐次到着したので、破損箇所を修理する一方、榎本たちは上陸し奥羽の形勢をうかがっていると、各地を転戦していた旧幕府の歩兵奉行大鳥圭介、新選組副長土方歳三、遊撃隊長人見勝太郎らの率いる二千五百余の兵と、仙台藩や会津藩の兵二百余人が榎本軍に合流を申し出てきた。そこで榎本はこれらの将兵を収容して北上、明治元年一〇月二〇日、箱館北方一〇里の鷲の木浜に到着した。

 当時の箱館府知事は清水谷公考で、津軽藩兵が箱館の警備に当たっていた。榎本軍は上陸すると、大鳥圭介と土方歳三の二隊に分かれて進撃を開始、各所に敵を破って二六日には早くも五稜郭を占領した。知事の清水谷公考は二四日の夜、船で青森へ脱出した。



 榎本は艦隊を箱館湾に入れるとつづいて松前藩の攻撃を土方に命じた。土方は彰義隊、陸軍隊など七百余を率いて出撃、一一月五日猛攻を加えて松前城を落とし、さらに館村の松前支城も攻略した。

 破竹の土方軍に追われて松前藩主の松前徳広は江差から熊石へと退いたが、土方らの急追撃を受け、船で熊石を脱出、青森へ敗走した。
 こうして蝦夷地を平定した榎本武揚は、五稜郭を本営に定め、箱館、松前、江差にそれぞれ奉行を置いて、北海道政府樹立≠宣言した。