アイヌの反乱

 康正二年(一四五六年) の春の ある日、箱館の北東、亀田川の上流志苔の鍛冶屋村でひとりのアイヌの少年が、日本人鍛冶屋に刺殺されるという事件が起こった。

 その原因は、前から注文しておいたマキリと呼ばれる小刀を受け取りに来たアイヌ少年が、刀工か ら代金の請求をされると、「斬れ味も試さないのに、そんな高い金は払えない。和人の首なら斬れるだろうか、果たしてアイヌの首に、刃が立つほどの刀かどう と罵った。当時、和人・・つまり日本人は何かにつけてアイヌを騙し、搾取していたので、アイヌ少年のいい分にも一理あったが、罵られ七鍛冶屋は、カッとなり、「それならば、アイヌの首に刃が立つかどうか、試してやろう」 とやにわに刀を辛い取り、ただひと突きに刺し殺してしまったのである。

 この知らせを叩いたアイヌの酋長コシャマインは、烈火の如くに憤った。それでなくても披は、和人の侵略と搾取を前々から腹に据えかねていたのである。
 数多くのコタン(部落)の上に君臨するコシャマインは、命令一下数千人のアイヌを動員し得る大勢力を持っていたので、「和人討つべし」
 の旗印を高々と掲げ、撒を四方に飛ばすと、東西各地でアイヌの反乱が起こり、多くの和人が殺された。 

 当時、このあたりの蝦夷地には 志苔、箱館、茂別、中野、脇本、大館、花沢など多くの館(砦)が あったが、館どうしの横の連絡が 不充分なため、協力してアイヌを鎮圧することができず、反乱は猖獗を極めた。
 しかし、やがて秋になると、アイヌは冬の食牡を貯えねばならぬので、その仕事の方が忙しくなり、反乱も自然に消滅した。
 和人は、これでアイヌの反乱もすっかり終わったものと安心していたが、翌康正三年五月一四日、またもアイヌの大軍が和人の部落を襲撃して来た。コシャマインを総大将、その子を副将とするアイヌ軍は、まず志苔館を陥れ、つづいて箱館も占領してここを本拠に定めた。アイヌ軍はさらに猛進撃をつづけ、中野館、脇本館、穏内館、およべ館、大館、弥保田館、原口館、比石館を次々と攻略し、難攻不落の茂別館と花沢館の両館を包囲した。

 花沢館には、上の国管領代官武田信広と輔佐役の蠣崎季繁とがいた。ふたりは、館に敗走して来た各館の諸将を集めて軍議を開いた。そして武田信広を総大将として、反撃に転ずることにした。
 豪勇の誉れ高い信広は、敢の拠点大館を一気に奪回する策を立て、まず軍勢を二隊に分けると、一隊を佐々木網繁に率いさせ、他の一隊を自ら指揮し、館を打って出て、アイヌの包囲網を突破した。
 そして、両隊をそれぞれ迂回して、突如大館の背面から夜陰に乗じて奇襲をかけ、館を奪還した。

 信広はさらに諸将と協議を重ね、この機会に間髪を入れずコシャマインの籠もる本拠箱館を急襲することにした。
 箱館は丘の上にある砦なので、攻めにくいことを知っている信広は、コシャマイン父子を館の外に誘い出して討ち取る作城を立て、館を攻めた後、わざと敗けたふりをして逃げ出すと、それが作戦とも知らぬコシャマイン父子はすぐ追撃して来た。信広は、コシャマインを七重浜で討ち取る計画だったので、相原政胤の率いる別働隊を七重浜の森林の中に潜ませておいた。
 信広は敗走したふりをして、自分も七重浜の栃の洞に身を隠し、コシャマイン父子の近付くところを、得意の強弓で射倒し、洞から走り出ると大刀を振って父子の首を斬り落とした。そして首級を竿頭に結び、「酋長コシャマインは武田信広が討ち取った。汝らわれに刃向かえば容赦せぬぞ」
 と大声に呼ばわった。総大将を討たれたアイヌ軍は、信広の鬼神をも凌ぐ凄まじきに恐れをなし、総崩れとなって逃げ去った。

 時に康正三年六月二〇日、信広は二七歳であった。
 信広が花沢館に凱旋すると、館では戦勝の祝事が張られ、席上、下の国管領代官、安東家政からは菊一文字の名刀が、蠣崎李繁からも名刀が贈られた。